ポール・スマート

1943年4月23日に英国ケント州アインズフォードで生まれたポール・スマートは、数多くのマシンを走らせたレーサーですが、ドゥカティスタにとって永遠に記憶に残る存在となったのは、1972年のイモラ200マイルレースにおける伝説的な勝利によるところが大きいでしょう。ドゥカティは、MVアグスタ、ホンダ、トライアンフ、ノートン、BSA、モトグッチをはじめ、11のメーカーの強力なライバルが擁するフィル・リード、ウォルター・ヴィラ、そして絶大な人気を誇ったジャコモ・アゴスティーニといった名うてのライダーを退けて栄誉を手にしました。

1970年代、ボルゴ・パニガーレに本社を置くドゥカティは、市販モデルの開発に力を注いでおり、レースへの投資はきわめて限られていました。スマートの勝利は予期しないものだったのです。彼がどれだけ才能を持っていたとしても、MVアグスタを駆るジャコモ・アゴスティーニに勝てるとは誰もが思っていませんでした。スマートに与えられたマシンのベースはグランツーリスモ 750 と呼ばれるツーリングバイクで、デスモドロミック・エンジンを搭載した最初のドゥカティ・モデルでした。このドゥカティ GT 750は、市販車と同じフレーム、サスペンション、エンジンそしてブレーキを流用していましたが、アゴスティーニのMVアグスタは、レース専用に開発された500ccのマシンでした。

少人数ながらも非常にプロフェッショナルなチームによって完璧にセットアップされたマシンにまたがり、スマートはイモラ200マイルレースをスタート。彼は、4周目にMVアグスタに乗るジャコモ・アゴスティーニを捉えました。

7万人を超えるファンと観衆が、そして自らのチームすらも驚嘆するなか、彼はアゴスティーニを抜き去り、トップでフィニッシュラインを通過したのです。

スマートを追撃するチームメイトのブルーノ・スパッジアーリ の姿も、ファンを喜ばせました。彼らは熾烈なトップ争いを展開しました。しかし、マシンの燃料が足りなくなったことで、スパッジアーリはスローダウンを余儀なくされ、最終的にスマートの独走を許しました。ドゥカティが、ドメニコ・アグスタ伯爵が製作するパワフルなマシンに対して、このような驚くべき結果を達成したのはこれが初めてのことでした。

この勝利以前、ポール・スマートはヨーロッパのレース界でよく知られた存在とは言えませんでした。彼は米国のチームであるハンセン・カワサキに所属し、米国でカワサキのマシンを走らせていました（当時の日本製バイクは技術面の信頼性が欠けていました）。レーサーが4人体制のドゥカティ・チームに参加したとき、スマートはタリオーニが指揮するテクニカル・チームの高い技術力と能力に驚かされました。そのようなポテンシャルを持ちながら、なぜドゥカティはプロフェッショナル・レーシングの分野に時間とエネルギーを投入してこなかったのか、彼は理解できませんでした。 

当時のスマートには知るよしもありませんでしたが、進歩の歯車はすでに回り始めており、イモラでのすばらしい勝利は、レースの戦歴が会社のビジネスと財務的な成長に大きな影響を与える、と経営陣に納得させる結果となったのです。

レースの前に時を戻しましょう。そもそも、スマートが加入したチームを編成するのは、ドゥカティにとって簡単なことではありませんでした。最初のステップは、資金の確保でした。タリオーニはドゥカティの役員を説得し、必要な支出を承認してもらうことに成功しました。しかし、困難な状況は、その後も続きました。ドゥカティはヤルノ・サーリネン、バリー・シーン、レンツォ・パゾリーニといった当時の有名ライダーたちと契約しようとしましたが、1972年当時のドゥカティは大排気量バイクレースの世界ではビッグネームではなく、彼らは興味を示しませんでした。ドゥカティは、小排気量単気筒エンジンを搭載したバイクのレースでしか実績がなく、大排気量の世界に戻ってきても、勝つ見込みはないと思われたのです。有名なライダーを集められなかったスパイラーニ監督は、次に、才能がありながらもあまり名前が知られていないライダー、たとえば英国人のアラン・ダンスコム、ベテランのブルーノ・スパッジアーリを初めとする数人に的を絞りました。彼はスマートにも連絡を取ろうとしましたが、電話がつながりません。最終的には妻のマギー（バリー・シーンの妹）からの伝言で、彼はこのオファーを知りました。ドゥカティ・チームの能力に関し、最初は疑念を持っていたポール・スマートでしたが、しばらく交渉を行った後、契約に署名しました。